「Androidは電気羊の夢を見るか」を読みたい管理者のブログ

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理解に対してのいささか抽象的な解釈 その1

watto.hatenablog.com
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ここら辺の記事読んでて思いついてしまったので書く。
書くなと言われても書く。

①脳の認識は2段階で成り立っている。
1.五感から脳神経へ入力がインプットされた状態
2.その感覚に意味を与えた段階
ただ脳の中で感覚をイメージすることが出来てその時には外部からのインプットを必要としない。その感覚は脳内で純粋に完結してる。
すなわち感覚だけあって脳がその感覚に意味をまだ与えてない状況も考えられる。
このことはテレビをながら見してたら音だけ入ってきて内容が理解できてない状況を考えればすぐに理解されよう。

②脳が意味を与える対象は主に言語だが、言語だけとは限らない。ものだったり状況だったりする。

③外国人に日本語を見せてもまるで理解できない。このことから同じ感覚でもそこに意味を汲み取るのは人それぞれであることがわかる。

④同じ人が同じ状況、同じものに同じ意味を汲み取るとは限らない。これは小説を初読の時と2回目読んだ時で感想が変わることでわかる。

⑤同じ情報でも複数の感覚を通して脳にインプットされる方が人は意味を汲み取りやすい。たとえば音楽の歌詞カードを眺めるという体験と音楽的体験は似てるようでまるで違うものだ。

⑥物理学という学問は数式によって記述される。数式にはその形をしてる理由があるのであり、意味が宿っている。式展開を追うだけでそこに意味を見出さないのは無為だ。なお数式に意味を見出すことは通常「数式の解釈」と呼ばれる。

⑦物語というものは同じ状況、同じ場面をその前後によって人に別々の意味を汲み取らせる機能がある。

⑧人生というものはそれが一つの物語だ。若い頃の読書の体験と年を取ってからの読書の体験が丸で別物になるのはそれが理由だ。

追記
意味の解釈が通常の人と極端に食い違ってしまった状態を人は狂気と呼ぶ。

更に追記
Wikipediaの「認識」に同じような記述がされてた。

心理学での認識過程[編集]
心理学では、認識とは、心的な過程のひとつで、外界から得た情報が意味づけされた上で意識に上ることを言う。ここで、外界からの情報が知覚である。これは、身体からの信号である感覚をもとに構成されたものとなる。
この知覚に対して意味づけを行う過程には知性的能力(理性・悟性)や知識が介在し、同じ対象に対しても個人ごとに同じ認識をしているとは限らない。
ここで、知覚していることは必ずしも認識していることを意味しない。いわゆる、「見ている」と「見えている」の違いである。 また、認識はそれだけではブラックボックスで、行動・発話などの出力行為によってのみ客観的に確認できるものである。
認識 - Wikipedia

脳のなかの幽霊 (角川文庫)

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