読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

「Androidは電気羊の夢を見るか」を読みたい管理者のブログ

仕事などでの色々な発見を記事にしてます。不定期更新。

イロイロな自意識

watto.hatenablog.com
id:wattoさんの連載が変な終わり方をしたから少しモヤモヤしてるのだよなぁ。
で。
一人でもんもんとしてるので記事にすることにした。

「もう一人の自分自身の正体は何か?」が本当に問題にしたかったこと

ぼくが、という認識をしている、という意味で
そもそもの始まりは自分の存在に対する不安なのだと思う。

私自身が、自分自身が存在することに対する不安・恐怖から逃れるためです。
もう一人の自分自身の正体は誰か?(間奏曲〔インテルメッツォ〕) - しいたげられたしいたけ2

それで、なぜ存在不安が発生するかといえば、ずばり自意識があるからだ、
ってなってったと思う。

本当はこの段階で、「その存在不安は何処からやってくるか」を記事に起こそうと思ったのだけれど、この連載が終わるまで見守ることにした。
それで言及が今頃になってしまた。
「意味論」も興味深くはあるのだけど、この文脈で語れる問題じゃないなぁ。

自意識の定義

で、自意識って何って話になる。
自意識って言葉自体がバズワード化してるからここできちんと定義したい次第。
自意識の定義は難しい問題だ。
たとえば「自意識過剰」と言われたりする。

自意識過剰(じいしきかじょう)とは、自分自身の事柄に関して過剰に意識している人。
自意識過剰とされている者には自分の外見や行動などが他人からどう思われているかなどに必要以上に注意をはらっている傾向がある。人前でスピーチをする時などに他人に良い印象を与えることへの意識のし過ぎによる緊張があがり症ると言われている[1]。反意語に無意識過剰というのが存在する。
自意識過剰 - Wikipedia

40歳にもなって他人との比較に終始し、自分より上か下かに汲々とする自意識
自意識の牢獄。どぎつい生。 - シロクマの屑籠

なんて使われ方もする。
辞書を見てみよう。

[名・形動]他に対する自己を意識しすぎること。自分が他人にどう見られるかを考えすぎること。また、そのさま。「―になる」「―な人」
じいしき【自意識】の意味 - 国語辞書 - goo辞書

「自意識」という言葉の根本の意味は「自己認識」と捉えてよさそうだ。
少なくともこの記事ではそう定義しよう。
自分という存在を認識して始めて「他に対する自己を意識しすぎること」が可能になるからだ。
あるいは「他人との比較に終始し、自分より上か下かに汲々とする自意識」という使われ方が可能となる。

さて問題提起

問題がないのが問題 なんちて。

私なりの「もう一人の自分自身の正体は何か?」という問いに対する結論は、自分自身を「意識のクオリア」と「意識のクオリアの短期記憶」の複合体と考えると、自分自身を認識しようとしたとき「意識のクオリアの短期記憶」の方のみを認識しようとし、それが「意識のクオリア」とは別物だと考えて無限ループに陥る、というものでした。
もう一人の自分自身の正体は誰か?(その5:たぶん完結) - しいたげられたしいたけ2

この結論はいささか焦りすぎた感があるのだよなぁ。
たとえば以下のQ&A問答を考えてみる。
Q1 動物に短期記憶はあるか
A1 あると答えるのが妥当だろう。
Q2 動物に意識はあるか
A2 あると考えるのが妥当だろう。人間と動物を区別する明確な理由はない。但しデカルトの時代には人間と動物は明確に区別されていた。
Q3 動物は自己認識できるか。
A3 大抵の動物学者はできないと考えてる。それはこんな実験から。

自分を分析する能力は、心理学者の間では、中期幼年期まで開発されず、恐らく動物の中でもほんの少数の種にしかないと、広く信じられている。自意識を有するや否やを調べるテストは以下の様なものである。対象の額に鮮やかなドットを塗り、次に、鏡の前に対象を置く。対象が自分の額からドットをとろうと手を伸ばした場合、対象は自己認識によって自分の存在をはっきり理解しているといえる。
自己認識 - Wikipedia

僕が言いたいのは、短期記憶は自己認識の必要条件ではあるが十分条件ではないということだ。
では自意識はいつ芽生えるのか、という疑問が必然的に発生する。

 重要なことは、このとき子どもが完全に騙されている、という点にあります。
 人間は、自分自身の眼で自分を直接に眺めることができません。それゆえ左右反転した鏡像という偽のイメージによって、最初の自己像を確立するほかはありません。このとき子どもは、自分が自分であるためには、鏡のような幻想の力を借りなければならないという意味で、きわめて大きな負債を追うことになります。
 別の言い方をするなら、子どもは鏡像の力を借りることで、ありえないほど早期に自己イメージを確立できる代わりに、「真の自己イメージ」と出会う機会は永遠にそこなわれます。これを精神分析では「主体は自我を鏡像のなかに疎外する」と表現します。
 多くの場合、こうした「疎外」は自覚されることはありません。だから、一部の人々は、「じぶん探し」と称する、ひたすらおのれの鏡像に騙され続ける旅をえんえんと続けます。しかし、ラカンによれば「じぶん探し」に真の回答がありえないことは、鏡像段階ですでに定められた運命なのです。
書籍出版 双風舎:【連載】「脳は心を記述できるのか」

人間でさえ、乳幼児期には統一された自己像を持ってないと思われている。
それどころか

一部の人々は、「じぶん探し」と称する、ひたすらおのれの鏡像に騙され続ける旅をえんえんと続けます。

という。